うしろすがたのしぐれてゆくか

愛するフレンチブルドッグと昨日と今日と明日と旅と。

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- --:-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) |
0706301.jpg

これは「チャナン」というお供え物。細工が繊細でとても美しい。
バリ人は毎朝神に手を合わせて祈っているので、観光で訪れた人は必ず目にしたことがあるだろう。市場でも売られているけど、だいたい家庭の女性たちが手作業でつくっている。ガゼボのタイルに仲良く腰掛けて談笑したりしながら。

上にはお米やお菓子がちょこんと盛られていて、野良犬や野良猫、鶏(鶏の場合はほぼ飼い主は決まっているらしい。ただし放し飼い)が食べている。
野良たちがうようよいても生きていけるわけだ。
雨や風の強い日は、あっという間に吹き上げられてそこらじゅうに散らばる。

あまりにキレイで小さくて、ひとつひとつが個性的でかわいいから、最初は見つける度に写真を撮ったり、テーブルの上に置いてあったりするものをおっかなびっくり、そして大切に扱っていた。
だって、これは神様に捧げるものなんだから。
だけどあるとき、祈りを捧げた後のチャナンがバイクや車に踏まれて、ぐちゃぐちゃになって交差点の隅っこに溜まっているのを見つけた。
こんなふうにしちゃっていいの?

よくよく観察していると、早朝、そこら辺に散らばっているチャナンをイブたちがほうきで掃いてちりとりでまとめて捨てている。
道路の脇の溝の中に落っこちたままになっていることだってよくある。

07063010.jpg

祈りが終わってしまえば、もう神に捧げられたということで、ただの抜け殻でしかないのかな。ああ、あれと同じか。仏壇に飾って「チーン」と鳴らして手を合わせたらもう食べていいよ、と、ばあちゃんに言われたじゃないか。

本当は、女性たちが祈る姿を写真で見てもらえるといいのだけれど、私たちは結局、一度も彼女たちにカメラを向けたことがなかった。毎日毎日あちこちで見てたんだけどね。実際は、何だか気が引けて出来なかった。

バリ人にとっての《祈り》は、かなり神聖なもの(あるいは時間)のように傍からは見えた。
普段どんなにいい加減でギャグばっかり言ってるバリ人でも、祈っている時の横顔はまっすぐでひたむきだ。信じるものを持っている人達はいいなあ、うらやましいなあ、と心から思う。私には信じるものがないから。

ところで。
私たちが滞在していた頃は、外国人がオダラン(祭り)に参加することに対してバリ全体が非常にナーバスになっている時期だった。いくつかのオダランでは「写真撮影お断り」という看板が出ていたし、外国人が入ることのできないものもあった。
もちろん、どんなに小さなオダランでも絶対に守らなければいけない約束事がある。もちろん、それだけは私たちもきちんと守って来た。
たとえば。
ケガで出血している時や、近親者が亡くなったばかりの人、女性の場合は出産後すぐや生理中は寺院に入ってはいけない。カメラのフラッシュは禁止。
正装で参加する(細かく言えば、その前には必ずマンディ=水浴びして全身を清めてから)など。

もともとバリは外国人や他宗教(一部例外もあるが)に対しても好意的な人たちだったと思うのだが、あまりに目に余る非道(無礼)な振るまいがあったと想像する。
それが日本人の振る舞いではないと信じたい。

0706302.jpg

なにもかもが観光地化されているように思えるバリでも、こと儀式(お祈り)に関しては、無宗教の私が越えてはいけないというか、気軽な気持ちで入っていけるようなものではない気がした。これはいくら長くバリにいても超えられない壁だった。
気楽にオダランに出かけて、お祈りをする振りをして…なんてどうしても出来ない。
実際何度かバリ人といっしょに寺院に入り、高僧に聖水を振りかけてもらってそれを口に含み、米粒も額に張った。だけど、どうしても形だけになってしまう。
そしていつだって自分の番が来るまで、ものすごくドキドキする。
でも、いったい何に祈ればいいのか、何を祈ればいいのかが分からない。
「拝む」とか「お願いする」ことなら出来る気がする。小さいころから神社には毎月のように連れて行ってもらった。その度に手を合わせて何かをお願いしていたような気もする。
だけどやっぱりそれは、祈っていたんじゃなくて拝んでいたんだと思う。

でも、それは別に超える必要の無い壁なんだろう。
できないならできないで、そのまま受け止めればいいだけの話。

だけどほかの日本人はいったいその辺をどうしているんだろう。
ほんとうの意味での「祈り」は出来ているんだろうか?
友達にはいつも「踊る時はすごく集中して無心になるタイプでしょー(天然だから)」なんて言われるけど、実際はなかなか無心になれない私。
なのでそろそろ「天然」ということばは抹消していただきたいものです。

スポンサーサイト

私がオダランのお祈りみたいのに混じった時はただの「興味」からだったなー。
んで、みんなが祈ってるのを横目でチラ見しながら自分も真似してみたり。
だけど聖水をかけられた瞬間、頭というか身体全身?にビリリッとした渇みたいな刺激というか衝撃を感じた。なんか憑きものが取れるみたいな、スッキリした感覚もあって、いまだに忘れられない。
かといってまたやりたいわけでなく、そういうものだからこそ、やはりよそ者の私がむやみにそんなことしちゃイケナインダ・・・って気にもなったわ~・・・

2007.07.10 18:34 URL | 8っ #- [ 編集 ]

>8っ さま
オダランにはかなり行ったよ~。
でも段々罪悪感みたいなのを感じるようになってきて
そのうち、寺院に入らないで余興だけ見て帰ることも多かった。
チャロナランとかに混じって朝までいるのは問題ないんだけどねー
プダンダを前にするとどうも…

欧米人は真剣な顔してやってたけど、やっぱりほとんどが信仰を持ってる人達だからスンナリ入っていけるのかな~

私なんて、バリ人のおばちゃんに髪の毛に花差されたり
お祈りのときに笑われたりして「なんだかな~」ってこともあったしね。

2007.07.11 23:47 URL | チタリニ #- [ 編集 ]













管理者にだけ表示

トラックバックURL↓
http://heyoka.blog68.fc2.com/tb.php/219-5d8d5fb2

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。